パルマンの物語-パーム農園で働くということ

『パーム油』のほとんどは東南アジアのインドネシアとマレーシアで生産されていますが、その生産現場(アブラヤシ農園)では労働者の強制労働や児童労働といった人権侵害が問題となっています。

この現実を日本の方々に知ってもらうために「ワヤン」というインドネシアの伝統芸能である影絵劇で表現しました。

パルマンの物語

パーム農園で働くということ

インドネシアの暮らしと
マレーシアへの
出稼ぎのはじまり

インドネシアの暮らしと、マレーシアへの出稼ぎのはじまり

私はパルマン(仮名)。インドネシアのスラウェシ島の小さな町で、4人兄弟の3番目に生まれた。父が早くに亡くなり、生活は苦しかった。母の再婚相手は私たちに暴力を振い、私は祖母や叔母の家を転々として育った。
中学校は叔母の家から通い、毎朝4時起きで家事をし、放課後も食事の支度や洗濯が日課だった。高校では人力車の引き手として働き、生活費を稼いだ。大学への進学はあきらめ、卒業後は警備員や建設現場で働いた。日当は70円ほどで、いつまでたっても貧しさからは抜け出せそうもなかった。
母の体調が悪いと聞き、村へ戻ったある日、叔父からジョハン親方を紹介された。親方はマレーシアのアブラヤシ農園での仕事に私を誘った「マレーシアの給料はインドネシアの何倍も高く、家族への仕送りもできる。正規労働者として好きなだけ働けるぞ。」甘い言葉に私はマレーシアへ行くことに決めた。

国境を越えて

1999年12月、私は他の村人とジョハン親方と港に行き、フェリーでカリマンタン(ボルネオ)島の北カリマンタン州に向かった。2日後にヌヌカンという町でスピードボートに乗り換え、国境を越えてマレーシア・サバ州のタワウについた。普通なら30分の距離だが、国境の監視を避け遠回りをしたため、2時間もかかった。つまり私たちは違法にマレーシアに入国した。

サリマウというアブラヤシ農園についたのは大晦日だった。バラック小屋の12畳ほどの部屋に6人ずつ住むことになった。トイレはアブラヤシの木の下、水浴びは農園内の溝で、飲み水は雨水だった。

ここの労働者の話に驚いた。「給料はない。生活用品が支給され、その代金は借金になる。逃げ出すと捕まって罰せられる。以前逃げようとした人は気を失うまで殴られ、その後、姿を見なくなった」

アブラヤシ農園の
バラック小屋で

アブラヤシ農園のバラック小屋で

私はバクリ監督の下、サリマウの農園で農薬散布の仕事をした。ノルマは6人で1日40ヘクタール。雑草が首の高さまで茂り、地面は凸凹で歩くだけでも大変な場所だった。私たちは朝6時から17時まで働いたが、給料はなかった。

現物支給されたのは、1カ月にコメ10キロ、タバコ24箱、塩とニンニク、玉ねぎを500グラムずつ、砂糖と油2キロずつ。肉も魚も野菜も無く、雑草を採っておかずにしていた。

「どうして私たちは給料をもらえないのですか?」
ある日、勇気を出してバクリ監督にたずねた。監督は無言で立ち去り、夜になって監督の子分たちがバラック小屋に来た。
監視役は私たちを見張るようになり、食後のおしゃべりを禁止した。毎晩19時過ぎに部屋に入って寝るように命じられ、部屋から出ることも禁じられた。

監督と監視役の仕打ち

2000年3月に仲間のうち4人が脱走した。
他の3人も逃げたが警察に捕まり、農園に連れ戻された。3人は監督たちに血まみれになるまで殴られた。私たちへの監視はより厳しくなり、毎晩、部屋の外から鍵をかけられた。

ある日、長年ここで働いている労働者と話をした。故郷に妻子を置いて出稼ぎに来て以来、16年間この農園で働いているが、帰国も、仕送りも1度もできていないという。
そこへ子分たちが来て、私たちに刀をつきつけて言った。
「脱走なんぞしてみろ。殺してやる」

別の日には、高熱の労働者が子分たちに殴られ悲鳴悲鳴をあげていた。「病気なんです。殴らないで、診療所で治療を受けさせてください」と頼んだが、逆上した子分に殴られた。

アブラヤシ農園からの逃走

労働者への虐待やひどい扱いに、私は友人たちと一緒に逃げる決意を固めた。
森の近くで草刈りをしていた時、子分たちがおしゃべりしている隙に、森に逃げ込んだ。
気づいた子分たちの叫びながら追ってくる声が聞こえた「待て!捕まえたら殺してやる!」
捕まったら本当に殺されるかもしれない。全力で走り続け、陽が沈むまで森の奥へと歩き続けた。
夜は真っ暗で不安になった。野生動物を避けて大きな木に登ったが、枝から落ちそうで眠るのは難しかった。

翌日も歩き続けた。飲み水がなくなり大きな野生動物の足跡に溜まった水を飲んだ。野生の果物を探したが、あまりなかった。この夜は倒れた木の上で寝た。希望を失わないよう皆で励ましあったが、水も食べ物もなく、本当に疲れ果てていた。

翌朝、運よく森を抜けて車道に出ることができた。通りすぎる車に手を振り、私たちを乗せてくれるトラックを見つけた。親切なトラック運転手の家で世話になりながら、しばらくIOI社のアブラヤシ農園で働いたが、給料が日当12リンギット(約360円)と少なすぎたので、また別のペルダ農園で働くことになった。

トラの口から出て
ワニの巣に入る

トラの口から出て、ワニの巣に入る

ペルダ農園でアブラヤシの収穫をしたが、給料はなく現物支給のみだった。4カ月後に友達と逃げて別の農園へ行った。そこでも日当11リンギット(約330円)と不十分だったため、6カ月でまた逃げ、パモル農園で半年間働いた。
2002年にマレーシア政府が法改正をし、違法な労働者を登録する手続きを進めることになった。私は仲間の労働者と共に、密入国の際に通ったヌヌカンの町へ向かった。そこはインドネシアの出稼ぎ労働者が何万人もいて、簡易テントで暮らし、不衛生で食料も足りず、病気が蔓延して死者が出ていた。
2カ月後、ようやくパスポートを受け取り、サバ州のアブラヤシ農園に戻った。その後いくつかの農園で働いたが、条件はどこも現物支給なしで日当12リンギット(約360円)という酷いものだった。

結婚、夫婦での帰省

2003年にモンソック・エステート社に転職した。ここでは月800リンギット(約24,000円)の給料で一年間働いた。2004年には、インドネシア人の女性と出会い、結婚した。この時、もう5年間も家に帰っていなかったので、休暇を取って妻と帰省することにした。

故郷の村に着くと、家族はとても驚いた。マレーシアへ行ってから連絡が無かったので、私はもう死んでしまったと思われていた。
マレーシアでの経験を話すと、叔父は謝ってくれたが、私をマレーシアに連れて行ったジョハン親方は村にはいなかった。
1カ月後、仕事に戻るため妻と再びマレーシアに発った。

インドネシアに帰国

その後、私たちは6年間マレーシアの農園で働き、その間2人の子どもが生まれた。妻と相談し、子どもの教育のことなどを考えて、2010年に家族でスラウェシの故郷の村に帰ることにした。

その後、一時はインドネシアの東カリマンタン州のアブラヤシ農園で、収穫労働者として働いたが、労働者に不利な待遇であり、子どもを通わせるための小学校も無かった。
農園企業に対して労働者の権利を要求するデモを起こしたことが原因で、解雇された。

農園の労働者のために

現在、私はスルブンドというアブラヤシ農園の労働組合で働いている。東カリマンタン州支部のマネージャーとして、7つのアブラヤシ農園の拠点を統括している。
私はこの労働組合を通じて、企業や政府に無視されている労働者の権利を守るために闘っている。

以上が、私がマレーシアのアブラヤシ農園で違法労働者として働き、人権侵害を受けた経験である。
マレーシアにはいまだに不平等に扱われ、逃げ出せずにいる多くの労働者がいる。いつか、彼らが平等と自由を手に入れられる日が来ることを願っている。

※影絵制作:スミリール
この資料は、2019年度独立行政法人環境再生保全機構地球環境基金の助成を受けて作成しました。